普遍性、違い、笑い

 自分1人が休みだった日には、YouTubeラジオ番組の「放送室」を流しながら、ドラクエをしていることがほとんどです。「放送室」というの、ダウンタウンの松本人志と放送作家の高須光聖が、1時間徒然とトークをするという番組。2人は小学校からの同級生ということもあって、当時の古い話で盛り上がることもよくあります。クラスメイトや先生を実名や当時のアダ名で言いながら「こんあことあったよな」と爆笑しているわけです。視聴者にとっては、時代も地域も違うし、誰かもわからない人間の話なんですが、非常におもしろい。それに加えて、そんなような奴は俺のまわりにも居たわと、そのネタになっている誰かを不思議と共有できてしまうわけです。


 小学校中学校というのは、たまたまその地域に住んでいたというだけの理由で子供が集められ、クラスが形成されます。金持ちもいれば、貧乏な家もあるし、家で商売をやっていたり、兄弟が居たり居なかったり……、そしてもちろん「授業」に関わる頭の良さ、勉強に対する家庭のスタンス、運動能力なども千差万別。小中学校の頃の、このごった煮感というのは、確かに話のネタとしては格好の材料なんでしょうね。そして幼い人間ならではの普遍性もあるので、知らないどこかの誰かの話でも、その情景が容易にイメージできるということでしょう。「子供ながらに思ったこと」というのは、意外と大人の世界でも感じることだったりするのです。


 高校以上になると、受験による「勉強」を軸としたフィルタリングがされるため、それ相応に似通った人間同士の集まりになります。小中学校の頃に居たような「なんだコイツは(笑)」という人間に出会いにくくなるわけです。そして大学では、日本全国からよくわからない連中が集結してきますが、それでもやはり「大学に行くことが許された人間」というカテゴライズは特殊なものです。大学に行かなかった人に、とあるキャンパスライフの話をしてもピンとこない(逆もまたしかり)でしょう。また、大学ごとの文化、特色も違ってくるので、誰かの大学時代の話というものにおいての普遍性は少なくなるのではないでしょうか。


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 まあともかく、こんな変な奴(先生)が居たよ、という部分で笑いが生じているわけです。自分とは違う世界観を持つ誰かというのは、その瞬間にはストレスにもなりますが、そこから離れる(時間的、空間的)と「笑い(ネタ)」にもなるわけです。社会人で言えば、上司同僚部下の陰口なんかもその類でしょう。つまり、個々の「違い」をストレスと思わず、笑いに変換できれば、もう少し気楽に生きていけるのかなと感じました。


 ちなみに「放送室」は10年以上前の番組で、きのう僕が聞いた中でサッカーの日韓ワールドカップの話が出ていました。それくらい古い番組ですが、僕の休日のささやかな楽しみとなっています。