味覚は変わるという話

 たいして深い付き合いもなかったのに、ちょくちょく思い出す人ってのがいます。少し前に書いた「ブルーブラック」のインクを使っている上司もそのひとりです。


 同じように、今でもしばしば頭の中に登場する人物で、バンドをやっていたときのバイト先で一緒だった先輩がいます。先輩という言い方をしましたが、年齢こそ僕より上でしたが、バイトをはじめたのは僕よりだいぶあとという間柄。当時21歳くらいの僕に対し、彼は28歳でした。そもそもフリーターで、ライブハウスでバンドをやってる28歳というだけで、「往年」みたいな存在感があり、もちろんそんなことは口にはしませんが、「いつまでバンド続けるんだろ?」という印象はありました。彼はいわゆるグラム・ロックというジャンルの音楽(初期のイエローモンキーやZIGGYなんかをイメージしてください)で、ヴォーカルを担当していました。背が高く、髪の毛はオレンジ色に染めており、グラム系というジャンルもあってか私服でもサイケな主張をしているため、パッと見は恐い感じもします。ので僕も最初は、あまり関わりたくないなと思っていましたが、仕事中や普通に会話を交わす分にはなんら支障はなく、ヴォーカルという役回りのためか、愛想が良く、サービス精神が旺盛で、よく喋る人でした。彼の話を聞いていると、年齢差もあってか、「へえ」「ふうん」と感心する話がたくさんあり、いつしか彼とのお喋りが好きになっていきました。


 そんな彼とのバイト中の雑談のひとつです。味覚は変わるという話。


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 食べ物の話をしているとき、彼がこう言い出しました。「君みたいに、二十歳くらいだったら居酒屋に行っても、唐揚げとかポテトフライとか揚げ出し豆腐みたいなものを頼むんだろうけど、歳を取ると美味しいと思うものも変わってくるだよ。そういう重たいものは食べたくなくなる。で、俺くらいの歳になると、小皿で出てくる料理をちょっと摘んで、それを何種類か食べられる方がよっぽど満足するようになる」と。確かに言ってることはわからないでもない。実際僕も居酒屋に行けば、メニューも見ずに唐揚げや揚げ出し豆腐を注文していました。ですが、偉いおっさんが料亭で食事をしているわけではなく、28歳で小皿の境地に達するのかね、と思いながら聞いていました。ましてや、こんな奇抜な格好をしたヴォーカリストが、「もう小鉢がいくつかあれば満足」とか言っているわけです。このイメージとのギャップもあってか、この「味覚は変わる」というセリフが、その後もずっと、今でも僕の頭のなかに残っているのです。


 そして僕も28歳になり、30歳を超え、35歳をも過ぎてしまいました。確かに、いつの間にか食事に行っても、野菜類や刺し身とかあっさりしたものを必ず頼むようになってきました。逆に当時のような唐揚げや揚げ出し豆腐を頼むことは、ほとんどありません。まあ誰しもそうだと思いますが。ただ、僕にとってインパクトがあるのは、同じバイト先で、同じ音楽をやっているアウトサイダーな仲間の口から「味覚は変わる」と聞いたことです。そして、半信半疑ではありましたが、間違いなくそれが事実だったということも。


 この先も間違いなく、この先も味覚は変わっていくでしょう。その度に、この先輩のことを思い出すんだと思います。