お経について

 小さい頃、毎日毎日、夕方の5時くらいになると、ばあちゃんが仏壇の前に行ってお経を読んでいた。どれくらいの時間かは忘れた。5分とか、せいぜい10分とかそれくらいだろう。僕の家のつくりからすると、仏壇の部屋のすぐ横にファミコンの部屋があったので、友だち大勢でファミコンをしてるすぐ側で、ばあちゃんが夕方お経を読み上げるという日常があった。ただ、それに関しては、友だちは誰も何も言わなかったし、僕としても気恥ずかしさや違和感などなく、そういうものとして受け止めていた。また、夕方が来たことを知らせてくれる鳩時計のようなものでもあった。だから、僕としてはお経というものは、わりかし身近にあるものだった。お通夜や葬式のときに急にあらわれる呪文のような不気味さなどなかった。


 ただ、それが何を意味しているかは大人になってもまったくわからなかったし、別段興味もなかった。でも、法事しかり、お経と関わることがちょくちょく発生するようになったので、少し立ち止まって考えてみることにする。


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 まず、「お経」という言葉は、永遠に変わらぬ普遍的な真理という意味を持っているのだとか。まあ、この辺は検索して調べてもらえばすぐにわかることなのだが、見つかるのはどうもこういったお経の概要的なものが多く、僕としてはなんかしっくりこない。僕が知りたいのは、お経と自分がどう付き合っていけば良いのかという距離感であって、お経に関する一般知識ではない。


 で、さらにいろいろ調べてみるのだが、Q&Aサイトに、「お経って意味があるんですか?」みたいな質問は多々あれど、やはりコレといった回答が見つからない。きれいごとで片付けられるなら、お経の時間くらい、故人のことを忍び、思い出し、生前のありがたみを思い返しなさいとなるのだろうが、そこまで僕は優等生ではない。早く終わらないかなというようなことばかり考えている。また、お経は、意味する内容がわからなくても、それを音として耳にするだけでありがたみがあるみたいな解釈も見受けられるが、僕はたまに設けられた法事の時間に、そこまで無心に近づける自信がない。だって、わからないものは、わからないのだから。英語で字幕付きの洋画ですら、気を抜けば寝てしまうくらいなので、聞くだけのお経から、そこまで深い意味を見出すことはむずかしい。


 と、文句ばかりだが、サイトを調べる限り、主な対処法としては、以下の2つに絞られるようだ。


  • お経そのものの勉強する

説得力はあるが、一番非現実的。もちろんお経の意味がわかっていれば、それ相応のありがたみや功徳があるのだろうが、大人になって、自分の日常の中に「お経の勉強」を取り入れる人なんていないだろう。その分の睡眠時間とか趣味の時間とか、何かを犠牲にしなければいけないからだ。僕にとっては、「選挙」や「保険」のことも同じで、知っておかねばならないとはわかっていても、腰を据えて勉強するのが、あとまわしになってしまう部類の事柄である。多分、誰にとってもそうだと思う。

  • お経の時間は休憩時間だと割り切る

わりかし悪くない。ただ、リラックスしたくても、足がしびれたり痛くなったりしてそれどころじゃないケースの方が多いので、これもあまり効果はなさそう。


 以上。


 ということで八方ふさがりだ。多くの日本人は、法事のお経に対して、さしたる疑問を持ってないのだろうか。そしてそれに対する解決策を探していないのだろうか。こんなことをチマチマ気にしているのは僕だけなのだろうか。いろいろ不安が生じてくる。


 ということで、無理矢理にでも何かしらの回答を見つけるとなると、じゃあ足がしびれなければ、お経の時間は30分ほどのリラックス・タイムになるのかなという考え方もできる。法事の時間を有意義に過ごすには、「足がしびれない正座の仕方」というのが、大きなヒントになるかもしれない。ということで、次回は座り方についてまた調べてみようと思う。


 ちなみに実は少し前にも法事やお経について調べたことがある。でも、なんとなく調べて、なんとなくそのままにしてたのだが、確か、法事のときなどに読み上げられるお経は、お坊さんが、「じゃあ、今日はこの辺のを読みましょうかね……」という感じで適当にチョイスしていると、どこかで見かけた気がする(真偽のほどは確かではなない)。だから、唱えられるお経に対しては、そこまで深い意味を求めるほどではないのかなと思っている。


 つづく。