「悔い」に関する考察

「(悔いに関して)結果論だが、いくつかはある。ただ、そのときそのとき考えて決断したことであり、何一つ後悔はしていない」
――松井秀喜


 僕らのような凡人は、飽きてきたからやめる、厭になったから逃げ出すことはあまたあれど、アスリートのように、自ら身を引く「引退」などと言える節目などそうそうない。とはいえ、僕にも「引退」めいた場面は2回ほど思い出すことができた。


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 まずは中学の部活まで遡るだろうか。最後、負けて終わったあと、もし「悔いがあるか?」と駆け寄ってきたインタビュアーに訊かれたら、当然「悔いはある」と答えたと思う。負けて終わって、やり残したことはないなどとは言えないし、思えない。同じように小学校のときの学童野球もそうだ。あげくこのときは、1点差で負けている最終回に1アウトランナー一塁で僕が盗塁失敗して2アウトになった記憶がある。悔いがないはずはない(ちなみに僕が盗塁失敗したのは、このときと大徳小学校の山本省吾・現ホークスがピッチャーのときの2回だけ)。


 次、それらしいことといえば、バンドをやめたときだろうか。このときはどうだったか。悔いはあったか、なかったか。――悔いはなかったように思える。自分なりにやり尽くしたし、それなりに時間をかけて考え、納得して決めたことだった。もちろんもっと成功すればそれに越したことはないので、悔いのようなものは少なからずあったが、それ以上の納得があったように思う。


 じゃあ、部活とバンドの違いってなんだろうかなと考えると、自分で決断したか否かだろうなと。どんな物事であれ、自分で決めたことであれば悔いは残らないということだろうか。一方、強制的な外的要因が絡み、それを余儀なくされた場合、悔いは残る。


 それに関係しているのか、僕は今でも、具体的にはランニングをしているときなどに、自分がバレーをしたり野球をしている頃のことを思い出し、もしかしたら、あのとき以上の活躍ができたかもしれない、もっとすごいことをやりのける可能性はあったのにな、ということを考えることがある。あと1試合勝っていれば準決勝だった。決勝まで残ればテレビ放送もあり、そこで自分が活躍している姿を思い浮かべたりとか。もし盗塁が決まっていれば同点に追いつけたのではないか。そして、ホームベースを踏む自分、ガッツポーズをして仲間に出迎えられる自分をイメージしたりと、成し遂げられなかったその後のシーンを妄想することがあるのだ。もちろんそういった場面を思い浮かべているとテンションは上がってくる。でも、バンド時代のことを考えて、その後メジャー・デビューをしたり、レコードが売れて有名人になったらどうなっていただろうか、なんてことはあまり考えることはない。当時の音源を聴いたり、ビデオを観ることはあれど、その後「もし成功していたら」をイメージすることはない。このへんでも、今でも悔いが残っているのか、納得して終わったものかという違いが出ているのかもしれない。


 だからだろうか、僕は野茂英雄の引退時のコメントというものを強烈なインパクトとともに記憶している。そう考えると、彼は引退後も精力的に野球に関わっている、その熱意が理解できるような気がする。だから、ずっと情熱を失わないということを考えると悔いを残しながら生きていくのもかっこいいのかなとも思えてしまう。

「引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る」
――野茂英雄