『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』感想

物語を体験するというのは、他人の靴に足を入れることです。世界には無数の異なった形やサイズの靴があります。そして、その靴に足を入れることによって、あなたは別の誰かの目を通して世界を見ることになる。


 昔、急遽フォーマルな皮靴が必要な用事ができ、他人の靴を借りたことがある。もちろん足のサイズが似通っているから借りたわけだが、その靴を履いて歩いている間、常に違和感というか不思議な気分を感じながら歩いていたことを今でもはっきりと思い出せる。その靴は、持ち主が普段から充分に履き慣らしているものだったため、“サイズ”とはまったく別次元での、“彼の足の形”というものが出来上がっていたわけだ。そしてもちろん、彼の足の形は、僕の足の形にはアジャストしなかった。そこで僕がまず感じたのは、人によって、歩き方や歩くときの癖がまったく違うんだなという発見。一見似たような部分(たとえば靴の外側の後ろの方)がすり減っていたとしても、そのすり減る細かな角度や面積の“質”、左右の磨り減り具合のバランスがまったく違うわけだ。人それぞれに癖があることくらい当然といえば当然なのだが、実際に他人の靴で街を歩くということで、これほどまでに奇妙な思いをするとは考えてもみなかった。


 そして、その靴で歩いているうちに、自分が自分じゃないような感覚になり、僕がどこに向かおうとしているのかという自分の意志すら何者かに支配されているような気になった。たかだか他人の靴を履いて歩いているというだけで、自分が乗っ取られたような気分だったわけだ。こんなことは、他人のTシャツやスウェットを借りたときなどには、到底感じたことのない未知の体験だった。


 そのせいか、その後僕は他人の靴を借りたという記憶がない。意識して避けている部分もないではない。つまり、他人の靴に足を入れるということで、靴にコントロールされてしまうような感覚を避けているとも言える。でも、冒頭の引用のように“物語を体験するというのは、他人の靴に足を入れることです”というような、自分とは違った世界を受け入れてやろうという考え方をするならば、意味もなく、他人の靴を借りて出かけてみるってのも悪くはないような気もした。それが比喩でもメタファーでもなく、誰かの靴に足を入れることによって、まったく違う世界を体験できることは、実証済みだからだ。もとより、ぜひ君もやってみることをおすすめする。できるだけ履きつぶされた誰かの靴を借りて、街に出かけてみることを。


【内容情報】(「BOOK」データベースより)
村上春樹が語る村上春樹の世界。日本と海外メディアからのインタビュー18本を収録。

【目次】(「BOOK」データベースより)
アウトサイダー/現実の力・現実を超える力/『スプートニクの恋人』を中心に/心を飾らない人/『海辺のカフカ』を中心に/「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」/お金で買うことのできるもっとも素晴らしいもの/世界でいちばん気に入った三つの都市/「何かを人に呑み込ませようとするとき、あなたはとびっきり親切にならなくてはならない」/「せっかくこうして作家になれたんだもの」レイモンド・カーヴァーについて語る〔ほか〕