遺書を書いた。(リライト)

 とりあえず、5年前の状況から説明していこう。


 村上春樹の「プールサイド」という短編小説のなかで、「35歳は人生の折りかえし点」だというセリフが登場し、35歳になる少し前から、人生における「35歳とは?」ということを強く強く意識するようになった。で、その35歳をむかえるにあたって、「遺書」でも書き残しておこうと思ったのだ。仮に、明日死ぬことがわかっていたとしたら、僕はどんな遺書を書くのだろうかというシミュレーションみたいなもの。


 縁起でもないとあなたは顔をしかめるかもしれないが、僕らは間違いなくいつまでも生き続けられるわけではない。大なり小なり死を意識しながら生きることが、人生の折りかえし点を過ぎた人間の、余生を過ごすコツのようなものだと思っている。


 というわけで、35歳のときに最初の「遺書」を書いたのだが、まあとても書きにくかった。僕は小学校のとき、作文が大嫌いだったのだが、その当時の厭だった気持ちを思い出した。そもそも、誰かの「遺書」を真剣に読んだことがないので、正しい「遺書」であったり、「遺書」とはこうあるべきという形を知らないからだと思う。誰に対してどれくらいフォーカスして書けばいいのか、感情はどのくらい盛り込めばいいのか、客観性はどの程度必要なのか、どこまで固有名詞や具体性を記した方がいいのか、比喩や暗喩は控えた方がいいのか、哲学的なフレーズは求められているのか、などなど。


 とにもかくにも、遺書かどうかはさておき、ひとまとまりの文章にして終わらせた。本当に「終わらせた」という表現がぴったりくる区切り方だった。そして次は40歳になったらまた書こう、5年後には自分はどんな人生を振り返り方をするのだろかと。


 で、5年が経って、今に至る。


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 しかし5年前と同じように、相変わらずどう書いていいのかまったくわからなかった。まあそもそも死ぬ気もない人間が遺書なんて重いものに触れ込もうとしてはいけないのかもしれない。遺書というよりも単なるメッセージ文章になってしまうのだ。まあそれでもいいのかもしれないが。


 ということで、都合2つの遺書(という名前のひとまとまりの文章)ができた。もちろん誰にも見せるつもりはないし、仮に僕が死んでも誰も見つけないと思う。ともかく、あと何回、この僕なりの遺書を書くことができるのだろうか。次は45歳。齢を取るにつれて、徐々に遺書を書くのも上手になっていくのかもしれない。それもそれでさみしい気もするが。