自分なりの言語統制の裏側で

 僕は元来、非常にめんどくさがり屋で、5分毎くらいに「めんどくさい」と口にしていたくらいだった。口にしないまでも、心のなかで思っていた。「あーもーめんどくせーなー」と。しかしむしろ僕は「めんどくせーなー」と言うことが、ちょっと擦れててカッコイイなんて思ってた時期もあるくらいで、どちらかというと積極的に使用していた部類の言葉かもしれない。


 で、いつか忘れたけど、多分20代も後半になった頃に指摘を受けた、「何かにつけて、めんどくさいって言うのやめた方がいいよ」と。「仮に本心じゃないにしても、言葉にしちゃうと本当にめんどくさくなって、終いにはなににも手を出さなくなってしまうよ」と。うむ、なるほどな、と関心し、それ以後は意識的にめんどくさいと簡単に言うのは避けるようにしている。思っても言わない。まあそれでもついつい反射的に言葉にしてしまっていることはあるのだが、昔よりかはだいぶ減ったと思っている。


 で、その一方で、他人の口にする「めんどくさい」が気になるようになってきた。というか、不快に感じるようになってきた。めんどくさいとかイチイチ言うなよと。みんなそう思ってるけど我慢してやってんだよと。そして、めんどくさいって言葉は、それだけマイナスのパワーを持っていたんだなと気づいたわけだ。ああ、こんなろくでもない言葉を僕は乱発してたんだなと深く反省した。


 だから僕は他人の陰口も、極力言わない。少なくとも、当人を知っている人間の前で誰かの悪口を言うことは意識的に避けている。聞いている方にしてみれば、知ってる人間の悪口が飛び出てきて厭な思いをする可能性もあるからだ。僕は嫌いかもしれないけど、その人にとってみれば大切な人かもしれない。そうやって発言には自分なりに気を使ってきたつもりである。


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 でも、僕が言いたいのは、何でもかんでも思ったことを口にすればいいってもんじゃないとか、考えてからものを言えよとかそういうことじゃない。それでも何かしら言葉にしないといけないということだ。


 つまり、僕は「めんどくさい」ってワードを避けるようになったが、それを別の表現にすると、喋ること自体を放棄している節があると言える。意思表示が下手になったわけだ。同じように「がんばって」という言葉も意志的に使ってない。言葉本来の意味合い以上に、薄っぺらい挨拶以下の価値に成り下がってると感じているから。でも、その代わりとなる激励の言葉というのを持ち合わせていない。普通なら、「じゃ、がんばってね」と軽く声をかけるような場面でも、「じゃ」くらいで終わらせることが多い。でもそれじゃ、充分な意思表示であったり、コミュニケーションってできていないんじゃないことに、最近気づいた。


 つまりは、「めんどくさい」というようなネガティブで他人をも不快にするような言葉であっても、「がんばって」というような手垢のついたすこぶる適当な励ましであっても、何も言わないよりかはマシなんじゃないかなということ。無言よりかは、なにかしらの意思表示をすることの方が優位にある気がするのだ。ブログなんかに考えをまとめるよりかは、「めんどくせー」「あついー」「だりぃー」といった発言を口にする方がずっとその人を人間らしく演出してくれる。


 その言葉が相手にどういう影響を与えるかなんか気にせず、本能的に発言することも大事なのかなと最近感じている。