俺を超えてみろは、本音か建前か

 たとえば、君が強豪校の高校球児で、去年甲子園に出場したとしよう。そして見事ベスト4まで勝ち上がる健闘をみせ、これが母校はもちろん、県の過去最高の成績となったと仮定する。当然、地元じゃちょっとした有名人みたくなり、この快挙を祝福してくれるわけだ。よくぞやってくれたと。で、引退し卒業。そして野球部は今年も甲子園に出場を果たし、NHKから後輩にメッセージをお願いしますと頼まれたとしよう。たいていそういうときは、判で押したように「去年のベスト4を超えて、全国制覇を目指してほしい!」みたなコメントをするのであろうが、はたして、ほんとにそう思うものなのだろうか。


 つまり僕が疑問に思うのは、自分たちの残した成績を簡単に上回ってほしいと思えるものなのかなということ。少なくとも僕はそんなに心が大きくないから、自分が一番でいたいし、「やっぱベスト4なんて無理っすわ」と後輩から言われる存在でいたい。もちろん単なる一人の地元の人間であれば、誰でもいいし、どの学校でもいいから、自県の学校が良い成績を残してほしいと思うもんだろう。でも、当事者で、去年、おととしまでその部活に関わっていたのであれば、やっぱり自分たちの成績が一番であってほしいし、「あのときのメンバー」と言われていたいと思うのが自然じゃないかなと思ったわけだ。つまりは、後輩には「ベストを尽くしてほしい。ただ、どんなに良くてもベスト4止まりくらいにしといてくれ」というのが正直なコメントなんじゃないのかなと思うのだ。非常にちっちゃい意見だけどね。


 どのアスリートも、おはようとかこんにちは、みたいな感覚で「負けず嫌い」という言葉を口にするけど、後輩には、非常にさらっと「ぼくの成績を超えてほしい」みたいなことを言うので、違和感を感じたわけである。君なら、「今年こそ全国制覇!」と後輩に心からのエールを贈ることができるだろうか。僕は無理っぽいです……。


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 といはいえ、引退したり一線を退いたアスリートは、もう自分の過去の記録なんてたいして興味がないのかもね。そこで張り合ったところで、自分は引退してるわけだから勝ち目はないし、お互いなんの刺激にもプラスにもならない。三流の人間こそが、引退したり、もう何の関わりもないのに、自分の過去の栄光にしがみついているのかもしれないね。後輩に「俺を超えてみろ」とさら~っと言えるくらいの潔さってカッコイイなと思った次第であります。