映画「華麗なるギャツビー」の追記

しかし、この『華麗なるギャツビー』、って、僕にとっては、「なぜこれがアメリカの国民的な作品として、ずっと愛され続けているのか?」がわからないところもあるのです。
(略)
なんというか、登場人物は、ロクでもない人ばかりなんですよ。

裏稼業で金を稼ぐ「純愛不倫パーティ男」と「友情という名のもとに他人の家庭をムチャクチャにしているのに、傍観者を決め込む男」「美人でバカはお前じゃないか女」「やり手傲慢差別主義男」「何でそこにいるのかよくわからない女」

こんなのばっかりです。

ある意味、これほど登場人物に感情移入できない作品も珍しい。


◆映画『華麗なるギャツビー』感想(2013.06/19)


 僕が勝手にリスペクトしているfujiponさんのブログでも映画「華麗なるギャツビー」について書かれていた。で、主に小説の方についての言及なのだが、僕が感じていながらも言葉にはなかなか表現できなかったことが、ここに書かれているなと思った。そうそう、こういうこと、さすがだなと。「これほど登場人物に感情移入できない作品も珍しい」。僕が小説『華麗なるギャツビー』(村上春樹バージョンは『グレート・ギャツビー』)に、良い印象を持てなかったのは、この一言で充分に説明できている。


 恐慌前のアメリカは、そういう時代だった。その時代を生きていたり、その時代の名残を知っている人間にとってみれば、こういった偏屈な人間に共感できる。のかもしれないが、1970年代生まれの日本人には、ギャツビーの登場人物たちにまったく感情移入できない。決して普遍的ではない限定的な舞台設定なんだろう。でも、映画では役者のレベルの高さなのか、登場するキャラクターに非常に親近感を感じた。冒頭の2~3分でニックという語り手に関して、「君もこの時代に生きていたら、こうだったかもしれないだろ」という投げかけがあり、瞬間的に自分がニックになることができた。そしてギャツビーに関しては、デイジーをお茶会に誘う相談をするシーンで、これまで金持ちでキザだった男が、一転あたふたどぎまぎしており、これがギャツビーの根底の部分であり、またこの物語の核の部分なんだなと痛いほど感じた。この「好きな女と逢うセッティングをする」ときの普遍的な心情が見えたことで、一気にギャツビーに惹かれてしまったわけだ。ギャツビーのデイジーに対する恋心という部分が非常に上手く表現されていた(もしくはデカプリオが完璧に演じていた)ことが、僕がこの映画に満足できたポイントのように思う。


 やっぱり、なんでも人に共感できるか否かなんだろうね。物語を楽しむにしても、リアルで何かを楽しむにしても。


◆映画 『華麗なるギャツビー』 公式サイト