良い人は、膳か?

 今朝のラジオで聞いた話。


 子育て談義のようなテーマで、パパさん同士がトークをしていた。そこで「良い親になる必要はないけど、真似されてもよい親になろう」みたいな言葉が出てきた。なるほどなと思った。


 まあ、僕自身パパさんの話に加わる資格もなければ、親というものの心境もわからないのだが、「真似されてもよい」という部分が非常に説得力を感じたのだ。


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 そして、別で仕事上聞いた話を思い出した。「誰だってみんなにいい顔したい、いい人だなと思われたい。でも、実際そんな風に愛想振りまいていても誰も言うこと聞かないし、話を進めようとしない。だから誰かが嫌われ役になって、口うるさく指摘して話を動かさないといけない」。まあ当然といえば当然なのだが、なかなかできないことでもある。少なくとも僕にとっては。


 つまりは、万人に認められる「良い人」なんてのを目指すと、どっちつかずの半端な人間になっちゃうんだよね。最近、身にしみてわかる。ホント、人って誰の言うことも聞かないし、実際自分も聞いてない。そこに巨大な強制力がない限りは、どこからともなく「俺はそういうのやりたくない」という自分ルールが湧き出てきて、無視してしまうのだ。で、「良い人」はその空気を察して、あまり深く指摘してこず、なんとなくウヤムヤになって消えしぼんでしまう。これが「良い人」の弊害だと思っている。


 でも、どんなに厳しい口調であっても、乱暴な言動であっても「真似したい人」というのは居る。「人望」という日本語を別の言葉で表現するときなら「真似したい人」なのかもしれないな。そんな風に思った。意識の優先順位を変えてみようかなと思える考え方だった。