卒業式の「お話」

 地方によって若干の違いがあれど、卒業式の流れというものは、おおよそ同じかと思われます。卒業生が入場してきて、君が代と校歌をうたって、卒業証書を受け渡す。その後、校長、教育委員会、PTAからのお祝いの言葉があり、在校生の送辞、卒業生の答辞、仰げば尊し的なドラマティックな合唱を経て、卒業生退場となります。


 一般的に卒業式のメイン・イベントは卒業証書授与の場面で、生徒が返事をしたり証書を受け取ったりする場面しょうが、僕は過去3回の卒業式で、校長先生はじめ大人のお方々のお話(式辞、祝辞)というものを非常に楽しみにしてました。というのも、自分が学生の頃なんてのは、こいうった偉い人の話なんて常日頃からまったく聞いてなかったし、聞こうともしていなかったのです。だから、自分が大人になった今、「ああ、やっぱ教育委員会の方は良いこと言うなぁ。若い頃からちゃんと聞いておけばよかったなぁ」そんな風に、反省するのか、もしくは聞かなくたって別段たいしたことはなかったのかを確かめたいという気持ちがあるのです。


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 まあ結論を言ってしまうと、卒業式の祝辞なんて、形式だけのものでまったく退屈な話だと実感しました。まだ結婚式で、友人代表の挨拶の方がよっぽど感心することが多い。そして、送辞や答辞に関しても同じようなことを感じました。テンプレート通りの文面だなと。不安だらけの入学式、汗を流した部活動、楽しかった修学旅行、感動の音楽祭、団結した運動会、思い出に残る文化祭、苦しかった受験勉強等々の話を模範的にまとめあげているだけなのです。抽象的な美辞麗句がならんでいるだけで、たいして込み上げるものはないのです。おそらくその理由は、教育員会の人にしてもPTAにしても、ややもすれば校長先生にしても、あまり生徒のことを知らないからなんでしょう。送辞、答辞も、個人の思いというよりかは、全体としての優等生的なイメージを代読しているに過ぎません。つまり、どれも個人的な思い入れがまったくないから、当たり障りの無い無難な言葉になってしまいます。だから感動もない。形だけ。一方、結婚式の友人代表は、新郎新婦のことをよく知っています。知っているから込み入った具体的な話ができます。だから、聞く側にとっても自然と笑みが浮かんだり、大きくうなずけるエピソードがあります。関係性の薄い人の話というのは、どうしたって退屈なのです。


 さらにもうひとつのがっかりとして、お偉い方からの話のなかに、昨年ノーベル賞受賞した山中教授の話題が出てきました。努力とか夢を追うとかそういうことを伝えたかったのでしょう。しかし、古い、ですよね。ノーベル生理学・医学賞受賞の発表があったのは、昨年10月。半年近く前の話です。また、中学生がノーベル賞に憧れや敬意を抱くのでしょうか。彼らはもっと下世話で幼稚な世界を生きています。だから今、中学生にノーベル賞の話をするというのは鮮度もないし、ピントもずれているような気がしました。まだ無理くりにでもAKBの話や、タイムリーなWBCの話の方が食いつくんじゃないのかなと思いながら聞いていました。でもまあ、大事なのは「それっぽい」形式なんでしょうけどね。卒業式の祝辞でノーベル賞の話。それっぽいですよね。


 3年間、偉い人の話を聞いて得たことは、人の話というものは、具体性、個人的な主観がないとおもしろくないということ。いくら偉い人であっても、知らない誰かのことを語るとつまらない話になってしまうということです。