日本というガラパゴス

 ラジオで聞いた話。


 レスリングがオリンピック競技から除外されるかもしれないというニュースを受けて、こんなのロビー活動してなかったことにすべての原因があると、とあるコメンテーターは主張していた。まあその通りだろう。


 レスリングというスポーツにおいて最強選手を鍛えあげることにかけては大成功おさめつつも、その選手を表舞台に立たせてやる活動、努力はさっぱりできてなかったってわけだ。そもそも日本人は「正々堂々」みたいな言葉、精神が大好きだから、スポーツなら身体を鍛えるという一面に集中し、勝負すれば万事オーケーだと考えていたに違いない。しかし世の中何事も政治である。見えないところで手をまわさなければ何も成し得ることなどできないし、継続することだって不可能なのだ。


 まあそんなこんなで、思い出したことが2つ。


 日本の電化製品が韓国や他のアジア諸国のそれに遅れをとっているのもこれと同じなわけだ。日本企業は品質にこだわるけど、「でもそれって誰が得すんだよ」という非常にミニマムなこだわりだったりする。一方では、ニーズのあるマーケットにマッチした商品を安価で開発する国は強い。ニーズに応えている商品だから瞬く間に評判が広まり、実力や性能は後からついてくるが、その頃にはもうメジャーなシェアを勝ち取っているわけだ。レベルの高い自己満足型(もちろんそれに共感する人もいるだろうが、所詮は非常に狭い範疇に過ぎない)か、それ相応の顧客満足型かといったところか。


 また、僕ら日本人は「1番」をつくりあげることにこだわり過ぎているのだ。少し前に、「2番ではダメなんですか?」発言に国民全体が呆れ返ったように、1番を取ることに絶対的な価値を置いている。でも僕が今思ったのは、「2番」でも「3番」でもいいのかもしれないと。そこそこのものができたら、あとは汚い手を使ってでも、その「2番」に上手く脚光を浴びせさせれば、それは人の目には「最強」となって映る。これこそが本当の価値(勝ち組)なのではないかと。でも、多くの日本人はこのやり方を「正々堂々」としてないと避難するだろう。しかし、このレスリングの一見を見ているとそれは負け組の言い訳に過ぎないと思えてくる。だってこのままいけば、「レスリング」というもの自体が「ないもの」と同様になってしまうわけだ(五輪以外で僕らがレスリングの試合を観ることはあるだろうか?)。1番も2番も最強もへったくれもない。


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 そして、だからこそ部活での体罰も起こるのだと思った。体罰にポジティブな一面があるとすると、己に打ち克つ力を植え付けさせることだろう。つまり、体罰は生徒個人(己)を強くするための手段といえる。しかし己に打ち克つことも大事だが、本来のゴールは敵に勝つことなのだ。だから、体罰を信条とする指導とは、個人という狭い範疇での強さを引き出そうとしており、全体として最短距離での勝利を勝ち取ることに盲目的な手段なのだと思う。


 この内側内側での強さに意味を見出そうとすることが、日本的な勝負感なわけだ。非難しつつも、僕にもこの感覚は植えつけられている。しかし、これを奥ゆかしいなどと賛美せず、古臭い価値観として、切り捨てるべきなんだろうね。国際舞台から姿を消すし、消さないまでも出遅れるだけである。そして日本人は自己満足だけで完結する鎖国国家になってしまいそうだ。北朝鮮みたいに。