お通夜のときに考えていたこと

 先日お通夜に参列しました。直接知っていた方ではないのですが、仕事関係の方のお母様ということでの参列です。


 通夜はセレモニー・ホールのような場所で行われました。ご高齢の方ということもあってか、特別しんみりした様子でもなく、どこかの子どもが狭い廊下を全力疾走して、誰かにぶつかって「お~、お嬢ちゃん大丈夫か?」というような微笑ましい談笑があったりもしました。やがて時間が来くると、僕は用意されたイスに座って、そういえば先日「法事について」「お経について」など、まとめてたなと、思いながら、わけもわからないお経をを聞いていました。


 僕がこのとき、ずっと考えていたことは「死」について。まあ、ごく自然な成り行きでしょう。自分の死、そして親の死というもの。死というものをどうやって迎えるか、また迎えさせてあげられるのか。


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 そのうち、ふと自分の父親のお母さんが亡くなったときのことを思い出しました。そのときは、こういったホールではなく実家で通夜をしました。もともと広い家だったので、そこに業者がやって来て、座布団を並べたり花輪を飾ったりしてくれました。やがてひと通り会場設定ができたという報告を受けます。僕の父親は喪主ではなかったはずですが、報告を受けると、様変わりした座敷と仏壇の部屋をじっと見まわして、静かに一言だけ「あの花輪が少し傾いている」と言って、右手で位置を正すような仕草をしました。確かによく見ると、その花輪だけ少し傾いているようにも見えました。母親とその隣にいた僕は「そんな細かいことどうでもいいじゃないか」とクスクスと笑った記憶があります。


 本当に些細な一瞬の出来事ですが、僕はこの場面を鮮明に覚えています。というより、思い出すことができました。当時中学3年生で、私立の受験の数日前という慌ただしい時期でしたが、覚えているのは、この「あの花輪が少し傾いている」という一幕だけ。そして僕は、現実世界で長い長いお経を聞きながら、さらに考えます。親の通夜や葬式をあげるということは、一つひとつの花輪の位置や見え方を吟味し、正すこと。これに尽きるんじゃないかと思いました。花輪を贈ってくれた人、そして贈られた人に対する配慮はもちろんですが、何より生きている人間しか、花輪の位置を正すことができないからです。


 そして僕は、今会場の正面、両脇にある花輪たちに目をやります。文句のつけようのないくらいきれいに飾られていました。僕は今回亡くなられたお母様とは面識がありません。でも、幸せな一生だったことだけは、わかったような気がしました。