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第19回かなざわ市民マラソン観戦

 2009年にはじめて市民マラソンなるものに参加したのですが、市民マラソンの観戦にまわるのは今回はじめてかもしれません。偶然走ってるのを見かけたから側まで行ってみたことはありますが、場所と時間を決め、待機して、やってくるランナーに声援を贈るという、きっちりした形は初です。


 マラソン観戦の大きな特徴は、まあそんなことは説明するまでもないでしょうが、野球やサッカーと違って、その全貌が見えないこと。自分が観ていられるのは、10キロのコースのうちのせいぜい前後100メートルくらいでしょうか。はたしてそのような環境下で何をどう楽しめるのかというのは、期待しつつも懸念点でもありました。


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 何となく話に聞いて知っていたことですが、大勢のランナーが走っている中で、お目当てのランナーを見つけるのは意外と至難の業で、ほんの数メートル先で「おお!」と思ったうちにランナーが目の前に来ており、「ぢあびおbんどあ!」という間に後ろ姿になって、どっか行ってしまうのです。何事もそうですが、コツを掴むまでは、なかなか楽しむことが難しいもの。しかし、客観的に外からレースを眺めていると、意外な側面が見えてきました。


 10キロなり21キロという「コース」で考えれば、確かにマラソン・コースのとある一箇所では全貌が見えません。しかし、「ランナー」を見るという側面では、一箇所に留まっていたほうがその全貌を見ることができます。速い人から遅い人まで多くのランナーが走っているところに立ち会えるということです。これだけ多くの人が参加しており、その実力や年齢まもちろん、余裕度や緊張感やファションから気合の入り方まで、まったく千差万別だということがわかります。スタート前に競技場内で「ああ、こんなにたくさん参加するんだな」と漠然と眺めている印象とはまったく違った、ランナーそのものの姿を感じることができるのです。


 自分がが走っているときに観えている世界というのは、前のランナーと、そして自分を追い抜いていくランナーのみ。つまりは、自分よりも実力のある速いランナーだけということになります。しかし、今回同じ場所にしばらく居続けながらランナーを見送っていると、速いランナーだけでなく、遅いランナーもいることに気づきます(当然のことなのですが)。トップ集団が過ぎ、声援を送りたいチームメイトや友人知人が通り過ぎ、何となく余韻でその場にしばらくいて、そして「じゃあ、もういい加減帰ろうか」と思っても、まだ走っているランナーがいるのです。見るからに運動神経の良さそうな若い人なのに苦しそうにやっと走っていたり、小雨が降ってきたから屋根のあるとこまで小走りしてるような軽いノリで駆けていたりと様々。


 しかし、それだけ全体から遅れをとってしまったランナーも、その表情や眼は先頭集団のそれとまったく同じで、「何かを掴みとろう」としていることが、まざまざと伝わってくるのです。彼らにだって目標タイムがあり自分に課したゴールがあり走っているわけだからです。おそらく、マラソンの大会に出たことのない人からしてみれば、「当たり前だろ」の一言で終わってしまうことかもしれませんが、いざランナーとしてロードに出て、速く走ることしか見えなくなってしまった自分にしてみると、この発見はとても新鮮でした。速い遅いの問題じゃないということ。自分の想いを、走ることで表現できているかが大事なのでは、ということです。


 ほんの一瞬しかプレイに関わることがない、マラソンの観戦ですが、見えてくるものは大きかったように思います。


◆台地を駆けよう!かなざわ市民マラソン