裁判を傍聴しなかった思い出

 大学の講義で「じゃ、夏休みの間に一度、なんでもいいから裁判を傍聴してきてください」と言われたことがある。「それで、その傍聴のレーポートを提出すれば、テストの点数が多少悪くても単位はあげますよ。テストに自信のない人は裁判所に行ってみてください。自信のある人はどちらでも構いませんけど」と。


 で、僕はもちろん傍聴になんて行かなかった。理由はすこぶるシンプルで、めんどくさいからだ。あともう一つ理由を挙げるとすると、裁判なんて物騒なものに関わりたくもなかった。当時僕は、バンドのことくらいしか頭にはなく、それ以外の事柄が自分の役に立つなんてからきし思ってもいなかった。そして、僕は見事その授業の単位を落とした。だから、この傍聴に行かなかったことを鮮明に覚えている。ただ、根に持つとか、そういったネガティブな意味合いではなく、単純に事実として、こういったことがあったと記憶されているのだ。裁判所に行ったら単位をあげるよと言われたのに無視して単位を落としたということ。


f:id:junichi13:20080608191107j:plain


 で、それとは別に友人と話をしていたら、偶然裁判の傍聴の話になった。彼が言うには「おれ、裁判の傍聴に行ったことあるけど、テレビなんかで見るように弁護士や検察官がバトルをするような手に汗握るやりとりなんてひとつもなかったよ。ぼそぼそと何かを読み上げて、もう全員がほとんど何言ってるのかわからないような小さい声でのやりとりが永遠と続いてるだけで、退屈でしょうがなかった」だとか。何事においてもテレビの演出というのは、間違ったイメージを植えつけてしまう。ちなみに1999年の映画『刑法第三十九条』(僕が衝撃を受けた映画のひとつだ)の冒頭では、すこぶる辛気臭く、めんどくさそうに事務的に裁判を進めるシーンがあって、多分実際の裁判はこういう空気感なんだろうなと思った。


 そしてさらに月日は流れ、裁判員制度などが適用さる、されないという話題がホットになっていた時分に、上記の一連の出来事を思い出したのだ。そういえば結局、裁判を傍聴したことってないなと。


 そのあたりから、僕もいつか裁判というものを見てみたいと思うようになった。理由は、一つ前のエントリーで書いた「醜い一面、汚い一面」というのは見ておくに越したことはないという考えからだ。


 僕らは、どうしても今いるこの生活が、当たり前だと感じてしまう。でも、そうではなく、もっと最悪なケースだってありうるのだということは、いろんな意味において知っておくべきだと思っている。大人になるにつれて、世の中には、夢や希望なんてほとんど存在せず、実は落とし穴だらけだということを知るようになったからだ。だから、どん底の景色というものを、自分が正常であるうちに知っておくべきだと考えるようになった。


 一度金沢の裁判所で傍聴できるものはないかと調べてみたことがあるが、いつ見ても「予定されている裁判はありません」みたいな感じで、いつの間にかチェックすることもやめてしまった。まあ田舎では、そうそう頻繁に事件事故なんて起きていないのだろう。もちろんそれに越したことはないのだが、世の中では、どういう風に刑が裁かれ、捻くれてしまった現実を受け入れざるを得ない人という者がどういう目をしているのか――、知っておくべき事柄だと思っている。


◆金沢地方裁判所/金沢家庭裁判所/石川県内の簡易裁判所の傍聴券交付情報