三浦しをん著『風が強く吹いている』を読んで

 今年2012年、『舟を編む』で本屋大賞を受賞された、三浦しをんさんの箱根駅伝を題材にした青春小説。様々な比喩や哲学に用いらる「走る」という、出尽くしているだろうというような題材ですが、とても読み応えのあるストーリーで感情移入して読み進めることができました。特に後半、レースになってからの各選手のモノローグは、思わずメモとった部分も少なくありません。


 ただ、同時にせつなくなることもありました。残念な意味で。


 もちろんフィクションだということは重々承知ですが、それにしても登場人物たちのタイムが神がかっていることに、いささか脱力するのです。なかでもっとも遅くどちらかというと足を引っ張っているランナーが5000メートルを走るペースと、僕の400メートルの全力疾走のペースがほぼ同じなのです。キロ3分40秒ほど。


 確かに人間、二十歳を超えると体力は落ちていくと言いますが、走ることに関しては顕著にその衰えがみられるのです。というのも、そこそこ速い高校生は10000メートル(10キロ)を、30分台中盤で走ります。それに対し、どの街でも見かけるような一般人の市民ランナーで、速いと言われる人は40分台中盤くらいでしょうか。また小中学生も1000メートルくらいなら、キロ3分ちょいほどでたったか走ってしまいます。若い(幼い)ランナーは、後先考えずによーいドンから突っ走るのです。そして走り切る気力と体力を持ち合わせています。しかし大人になると、気力が落ちるのか体力が付いていかないのか、力配分やペース配分を考えるようになります。走ることはもっとも原始的でシンプルな運動ですが、年齢とともにそのアプローチや結果がまったく違ってくるものなのです。


 僕らはどれだけジムに通ったり食事やケアに時間とお金をかけても、適当に部活をやってる高校生にすら勝てもしないという理不尽な壁があります。また高校生にとっての10キロ40分というのはジョギング(ゆっくり走る)の部類。でも僕はその半分、5キロを20分で走ることもできないし、3キロですらそのペースでは走れませんし、1キロだって微妙なところなのです。


 走るというのは、すこぶる単純だけど、それが故に残酷で、かつ理不尽だなと改めて感じました。


 しかし、もちろん同時に人間の身体能力の限界の妙をも感じさせてくれます。この世の中に、僕らの100メートル全力疾走と同じくらいのスピードで2時間走り続ける人間がいるわけです。ましてやそんなタイムで走る人の本職が、公務員だったりお笑い芸人だったりもします。


 この身体の衰えと、同時に存在する努力に拠るタイムの伸びに立ち向かうこと。それが走ることの一つの意味・象徴なのかもしれませんね。


【内容情報】(「BOOK」データベースより)
箱根駅伝を走りたいーそんな灰二の想いが、天才ランナー走と出会って動き出す。「駅伝」って何?走るってどういうことなんだ?十人の個性あふれるメンバーが、長距離を走ること(=生きること)に夢中で突き進む。自分の限界に挑戦し、ゴールを目指して襷を繋ぐことで、仲間と繋がっていく…風を感じて、走れ!「速く」ではなく「強く」-純度100パーセントの疾走青春小説。