ヒロシマという街

 前職で、遠方に出かけるとお金がもらえるというユニークな福利厚生があった。そのときに「そうだ、広島に行ってみよう」という思いがふと浮かんだ。小学校の夏休みで登校日となっていた8月6日って一体何なのだろう。もう今は大人になっているから、8月6日に広島で行われているという平和祈念式典に参加してみたら何かわかるのではないかと思ったのだ。しかし広島行きの希望者が他にもおり、厳選なるじゃんけんの結果、敗退。当時、広島とは別の地域に行くことになったのである。


 広島訪問を逃したことは、毎年低迷するカープのように存在感も薄くなっていたのだが、ふと最近「そういえば結局広島に行ってないな」ということを思い出した。震災の影響は、あると思う。1970年代に生まれ、2011年時点で北陸で生活しているとなると、戦争も震災もどこか遠い昔の遠い場所で起こった、他人ごとのようにも思えてしまう自分がいるのだ。まるで映画やつくり話のように。でもそれは違うのではないかと疑問に思うようになっていたのだ。


f:id:junichi13:20120806084201j:image


 ということで、今回の広島旅行の大きな目的は、8月6日の平和祈念式典に参加することだった。もし君もいつか広島平和祈念式典に参加してみようと思ったときに参考になるよう、とりあえず一連のメモを事務的にまとめておく。ちなみにこの日の参列者は約5万人だとか。

  • 式典は市内の平和記念公園にて、午前8時から開始。しかし用意された座席は7時くらいに満席になってしまうらしい。
  • 式典会場には路面電車を使用するのが便利。2つの路線で会場に向かうことができ、広島駅から20分ほど。ただし、当日朝の車内はたいへん混雑するし、ダイヤは大きく乱れる。最寄り駅から公園までは徒歩で5分ほど。
  • 僕らが会場に着いたのは8時直前。当然、会場内には入れず、ロープの外、警備員さんと向きあうような形で、式に参加することになったので、会場内の細かい様子はわからない。
  • 会場内は、前方の日除けのない座席と後方のテントが張られた座席があった。
  • 公園の周辺には木陰がたくさんあり、モニターまで用意されているので、実は木陰にいるのが一番リラックスできる参加方法かもしれない。
  • 式典は45分ほどで終了する。
  • 式典が終わると、会場内にも入ることができ、献花や記念撮影も可能。


f:id:junichi13:20120806114333j:image


 当日朝ホテルを出たときは、ほどよく曇っていたのだが、式がはじまると、それを待っていたかのように太陽が強烈なまでに輝きはじめた。その日差しは、まるで皮膚をカンナで削っているような激しさで、削りカスが汗になっているのではないかと思える程だった。しかし僕は、この環境の方が、真夏のヒロシマの平和祈念式典らしいような気もしてむしろ不思議と心地良いくらいだった。


 また会場にはスピーカーが随所に見られ、計算した配置なのか単純に性能が良いのか、音響はかなり安定したものだった。僕らはメインの壇上からは、Mazda Zoom-Zoom スタジアム1個分くらい遠く離れた場所に居たのだが、何の疎外感もなく式に参加できていた。ハウリングもなければ音ズレやカブリ、そもそものトラブルなど一切見受けられない。市長や子ども代表の挨拶や朗読はもちろん、地元の中高生による吹奏楽の演奏もクリアに聞くことができる。この吹奏楽部による音楽がとても心に染みた。素晴らしい演奏だった。


 そして8時15分、黙祷。


 テレビでは何度も見ているこの黙祷だが、会場で体験してみると、時間というものが歪んで感じられる不思議な1分間だった。今この瞬間が、昭和20年であるかのような錯覚に陥るのだ。それは8月6日の午前8時14分で、平和や平穏とは言えないまでも、ごく普通の、ごくごく日常の月曜日の朝として、永遠に続く1分間かのように。そんな僕が知りもしない時間の生活に身を委ねているような気分になるのだ。また同時に、いくら汗が滴り落ちようがこのままこの場所で目を閉じ続けても構わないような気持ちにもなった。そんな僕らを取り囲む蝉たちは、我々こそが夏の象徴であるということを自負しているかのように、強く生命力に満ちた鳴き声をあげている。この蝉の声が唯一、時間のエア・ポケットに迷い込んでしまった僕らと今とを繋ぎとめてくれている存在のようだった。


 僕らが8月6日夏休みの最中に学校に登校させられ、クラス全員で黙祷していたのは、いつか大人になって、ある程度の事実を理解できるようになったとき、この不思議な時間を感じられるための予行演習だったのかもしれない。


f:id:junichi13:20120806114217j:image


 式典後、公園の横に建てられている平和記念資料館に足を運んだ。しかし、ここまでくるのに、早起きと満員(路面)電車と暑さと多くの人出で疲れ果ててしまい、館内の展示をしっかり噛み締めるだけの集中力は、正直残っていなかった。二度手間にはなるかもしれないが、式典とは別の日程で訪れることをおすすめする。なんせ大きな資料館なのだ。


 しかし、式典でもそうだったが、この資料館に来てで感じたことがひとつある。アクマで僕の主観なので絶対的な見解ではないのだが、外国人の姿が少ないなと思ったのだ。もちろん外国からの参列者は多数いる。しかし、僕はもっと多くの外国人、特に北米からの訪問者がいるものだと勝手にイメージしていたので、少なからずギャップを感じた。世界で唯一の被曝国、世界で最初の被曝の地に、加害国であるアメリカ人は興味関心を持つべきだろう。「おいアメリカ人。お前らは直接関係ないとは言わずに、原爆のことをもっと知るべきだ。日本に来て、ヒロシマを訪れ、少しはこの歴史的事実を頭に叩きこんで、ブログやfacebookで世界に英語で情報発信しろよ」と。そんな違和感を感じながら資料館を巡っていたら、館内の一角で、次のような言葉を見つけた。

外国の教科書に学ぶ


 かつて日本が植民地としていた国や、戦争で一時期占領していたアジアの国ぐにの教科書を読みなおしてみようという動きがあります。
 広島は原子爆弾で大きな被害を受けましたが、それらの国ぐにも日本のために大きな痛手をこうむっています。教科書にはその国の痛みが詳しく書かれており、その国で日本がどう見られているかもわかります。
 国際化は、双方の国の歴史を正しくとらえることで初めて成り立ちます。お互いの痛みを未来へどう生かすかが大切です。


 自分が持った違和感と同じことを、日本人に対して抱いているアジアの国々が存在する。ときに「反日感情を煽る間違った歴史教育がされている」と報じられることもあるが、細かな表現方法はどうあれ、日本人も加害国として知っておくべき事実が世界には多数存在しているわけだ。僕の今いる世界は、気の遠くなるような歴史の重なり合いの上に位置しており、僕はこの時間や歴史というものの中で生かされているに過ぎない。だからこそ、これまでに見落としていたり、見ないようにしてきた、たくさんの「事実」を、いろんな立場から知っておかなければいけないと。


 別に僕は夢想的な平和主義者でもないし、思想だって右でも左でもない。そもそも、そういった立ち位置によって色も形も変わるような主義主張などよりも、まずはプレーンな「事実」に触れてみる必要があるのではないか。そしてその歴史を背負っている現場に立つことの意味をヒロシマが教えてくれた気がする。

「平和宣言」より抜粋


2011年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曾有の大惨事が発生した、人類にとって忘れがたい日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前向きに生きようとする被害者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります。


平成24年(2012年)8月6日
広島市長 松井一實

「平和への誓い」より抜粋


つらい出来事を、同じように体験することはできないけれど、
わたしたちは、想像することによって、共感することができます。
悲しい過去を、変えることはできないけれど、
わたしたちは、未来をつくるための夢と希望を持つことができます。


平和はわたしたちでつくるものです。
身近なところに、できることがあります。
違いを認め合い、相手の立場になって考えることも平和です。
思いを伝え合い、力を合わせ支え合うことも平和です。
わたしたちは、平和をつくり続けます。
仲間とともに、行動していくことを誓います。


平成24年(2012年)8月6日
こども代表


◆広島平和記念資料館