鴻上尚史著『あなたの思いを伝える表現力のレッスン』を読んで

「表現」と「感情」の関係


 ここでちょっと、「表現」と「感情」の関係を考えてみます。
(中略)
 人は恋をすると、「表現」と「感情」に対して厳しく、敏感になります(この場合の「表現」は「言葉」ということです)。
 つまり、「言葉」と「感情」の距離に初めて気付くのです。「言葉」が「感情」をそのまま表現したものではないと分かるのです。「言葉はいつも思いに足りない」と気付くのです。
 あなたも経験があると思います。言っても言っても、しゃべってもしゃべっても、自分の気持ちを正確に表現したと思えない感覚。
 その時、人は、感情と表現の厳密な結びつきを探そうとするのです。
 自分の感情をちゃんと表現したいと熱望するのです。
 そして表現の限界を知るのです。(中略)
 自分の「喜び」という感情を、その感情に対する表現でちゃんと、厳密に、的確に表現したいと思わなかったら、パターンですませることに疑問を持たなかったのです。
 僕たちは、こういう日常を生きています。


 この話は、「喜び」を身体全体を使って10パターン表現してくださいというレッスンの補足解説として語られました。どうでしょう、できるでしょうか、身体を使っての「喜び」を10パターン。バンザーイとかヨッシャーみたいのは簡単に思い浮かぶでしょうが、残り8パターンを表現できますか。もしくは「喜び」を伝える言葉を10パターンでもいいでしょう。――めんどくせーよ、と思った方も含め、できなかった方にとっては、これが、あなたの表現の限界というやつです。


 僕は、「表現の限界を知る(感じる)と、パターンですませようとする」という部分にひどく感銘を受けました。確かに自分の気持ちを伝える際、適当に妥協をして手垢のついた汎用的な言葉で済ましてしまってる心当たりが多々あります(このブログでも)。この言葉が、自分の感情を正確に代弁してくれるのかを深く考えずに、誰でも知ってるようなごく一般的な表現で書き残してしまうということです。


 一方で、僕なりのこだわりもありました。「がんばろう」という言葉を使わなかった(今でもなるべく使わないようにしてる)のも、誰にでも簡単に使え、パターン化された便利な言葉になっており、言葉本来が持つ意味が消えてしまった「音の並び」のように感じたからです。単なる「がんばろう」じゃ、何かを伝えるには弱すぎる気がするのです。最近誰かに「がんばろう!」と言われて、ホントにがんばった記憶がありますか。さらっと聞き流してしまっていることがほとんじゃないでしょうか。


 また逆のバージョンとして、仕事で「マニュアル」を拵えたり、テンプレを用意したりすると人間というものは、それ以外の対応をまったくしてくれなくなります。マニュアル化されていない事柄に対しては、「それもマニュアルにしよう」となるまで、(それが過去に幾度となく起こったことでも)何度も何度もいちいち確認を要求されるわけです。これは、決められたパターンに対してしか、自分の感情(対応)が動かなくなってしまっているからでしょう。


 パターン化、マニュアル化、テンプレ化はもちろん便利な手段のひとつです。けれど、こういった利便性の高さは、ときに感情や思考を殺してしまうわけです。無機質な人間をつくりあげてしまうのです。感情をもっとアナログに表現する意識を大事にしていきたいですね。


【内容情報】(「BOOK」データベースより)
「何を話すか」だけでなく「どう話すか」に注意を払えば、あなたの思いは伝わります。美しい声で淀みなく話すことが目的ではありません。「声」「体」「表情」を駆使して、相手を退屈させず、魅力的に伝える方法を教えます。人気演出家だからできた、面白くて実践的な表現入門。早稲田大学の人気講義が書籍化。

【目次】(「BOOK」データベースより)
体の緊張を自覚する/体と出会う/体で遊ぶ/声と出会う/声を知る/声で遊ぶ/五感を刺激する/感情と感覚を刺激する/感覚・感情で遊ぶ/他者と付き合う〔ほか〕

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
鴻上尚史(コウカミショウジ)
1958年8月2日、愛媛県生まれ。早稲田大学法学部卒業。作家・演出家・映画監督。大学在学中の1981年、劇団「第三舞台」を旗揚げする。1987年『朝日のような夕日をつれて’87』で紀伊國屋演劇賞団体賞、1994年『スナフキンの手紙』で岸田國士戯曲賞を受賞。2008年に旗揚げした「虚構の劇団」の旗揚げ三部作戯曲集「グローブ・ジャングル」では、第61回読売文学賞戯曲・シナリオ賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)