僕が働いた場所@広告代理店1(2001~2002年)

 バンドを辞めてから、すぐ「とりあえず働こう」ということで、どっかの求人サイトを開いて、見つけたところに面接に行ってみた。東中野にある広告代理店。広告代理店と言うと聞こえはいいが、実際は名刺広告という広告を一般人にガツガツ売っていくという営業の仕事だった。まずは名刺広告とやらを説明しておく。


 お正月の新聞紙面を思い浮かべてほしい。「新年あけましておめでとう」と紙面の真ん中に干支のキャラクターを使ったページがあると思う。そのまわりには地元の企業などの名刺大の広告が出ており、その企業からの広告費によって正月の紙面は儲けを出しているわけだ。企業も新年一発目の挨拶を新聞に載せるのも悪くなかろうということで、広告掲載費を払う。こういった名刺の大きさの広告を名刺広告と呼ぶ。ストレートで覚えやすい名称だ。で、僕らがやっていたのは、企業ではなく、個人からこの広告費(協賛金と呼んでいた)をもらうという仕事である。


 僕らは、どこかの高校の創立100周年などを祝う特集記事を企画して、新聞か雑誌媒体からページを買う。その特集記事を応援しましょうという名目で卒業生から協賛金を集める(名刺広告を売る)。紙面の料金と協賛金の差額が儲けになる。卒業生のなかで医者や弁護士、会社の社長など肩書きのある人は、オレはこれだけ偉くなったぜという自己主張したい願望もあるので、「あ~、しょうがないなぁ。じゃあ、株式会社○○専務取締役□□で載せておいてくれ。で、いくらだね?」と、自尊心の高い人は協賛してくれやすい。


 だから、一般的にお勉強のできる高校にスポットを絞って記事をつくり、人に自慢できる肩書きのある卒業生を電話一本で何がなんでも捕まえる。そして協賛金をもらえるか否かが勝負となるのだ。世の中にはいろんな金儲けの仕方があり、それ以上にお金の消費の仕方もある。


 ちなみに協賛金というのは、新聞で35,000円、雑誌の場合は45,000円だった。電話をして、いきなり影も形もないものに対して45,000円を払わせるという難易度ウルトラCの営業である。ただ先輩に言わせれば「それくらいのお金がなくなったって、誰も死にはしないんだよ。だから、遠慮なく売っていけばいいよ」と。また、「オレならこんな広告絶対買わないけどな」とも。それらの言葉を聞いてから、開き直って営業ができていった気がする。相手に同情する気持ちがあっては、売上など伸ばせないのだ。また、商品に対して敬意と愛情を持つ必要などないということも学んだ。たとえ自分がまったく欲しくもないモノであっても、他人に薦めて売ることは可能なのだ。テクニックさえあれば。


 こうして振り返ってみると、一見胡散臭い仕事だし、むしろブラック企業のような雰囲気はあっただろう(もちろん悪いことは何もしてないが)。社員も年配の方ばかりで平均年齢もゆうに50歳は超えていた気がする。だから若い新人が来ても1日で辞めることが多かったし、ひどいときは昼休みに休憩に行ったまま戻って来なかったおっさんもいるくらいだ。しかし、僕の上司はじめ幹部には六大学卒業の方ばかりだったし、意外としっかりした会社だったのかもしれない。まあ何事においても、汗かきの兵隊のやることは胡散臭げなものばかりだ。


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 僕の営業成績は悪くなかった。「若い人の声」というだけで、お情けから広告を買ってくれる人も少なからずいたからだ。というか、ほとんどが「あんたみたいな若いのが頑張ってんなら、しょうがないから一口買うよ」と言ってくれたし、口にしなくてもそういう雰囲気が感じられた。若い人に頼まれたから、3万なり4万円を支払うってことだ。21世紀になりたての2001年の話だ。もちろん、このときは「へへへ、ラッキー」くらいにしか思ってなかったが、消費者が物を買うときの心理としては、物ではなく人で判断しているんだなということを知った。これは間違いない。そもそも僕らは生活必需品や一流ブランドを売ってるわけではない、「肩書きと名前の掲載」を売っているのだ。こんなものを売ろうとするなら、人間力がなければ話しにならない。


 まじめに働くつもりで入った会社だが、営業ノルマというプレッシャーに死ぬまで追いまわされることをイメージしたとき嫌気が差したので社員登用は断ったし、適当な理由をつけて辞めようとは常々考えていた。はじめて「数字」というものを意識させられた仕事だということもあるだろう。しかし、営業として学んだことはとてつもなく大きい1年だった。このプレッシャーがなければ、心はタフにならないし、人間は成長しない。このとき学んだことは現職でも少なからず役に立っている。実際は、腰掛けの仕事でしかなかったけど非常に良い経験だった。