僕が住んでみた町@石神井(1998~2000年)


 最初の引越しで、西武新宿線沿線、練馬の「石神井」という場所に引っ越しました。これで「しゃくじい」と読みます。バンド・メンバーがこの石神井に住んでいたということで、「じゃ、それで」みたいなノリで決めました。


 今思い返してみると、石神井には2年ほどしか居ませんでした。これはいつ思い返しても不思議に思えることで、実際には4~5年くらい石神井に居たと感じるくらい1日1日が非常にディープでした。しかし、東京に居た11年のうちのたったの2年です。しかし、この後は長く妹と2人で暮らすことになるので、本当の意味で1人で暮らしていた2年間となると、それはそれで長く感じるのも無理もないかなと思ってしまいます。


 玄関を入って右手にキッチン、左手にユニットバスがあり、扉を隔てて、少し縦長の6畳ロフト付きの部屋があります。収納はなかったのですが、ロフトの上に季節外れの布団や洋服やなんかを放り込めたので、前の部屋よりかは幾分広く感じました。そしてこの頃から少しずつ読みはじめた文庫や書籍もロフトに並べていました。部屋の窓を開けると、湿っぽい竹やぶが広がっていましたが、日当たりが良く、明るい場所だったイメージがあります。最寄りの上石神井駅から徒歩7分ほどの103号室。家賃は62,000円だったかと。西ヶ原は下町の金沢にも似たおっとりした町でしたが、石神井はガツガツとした学生が住んでいる町といった雰囲気がありました。


 この時期は、毎日のようにエレクトリック・ベースを担いで自転車こいで吉祥寺に行き、スタジオでバンド練習をして、そのスタジオでバイトをするという生活をしていました。石神井からはまっすぐ南下すれば吉祥寺着きます。そして、夜中に同じく自転車に乗って、自宅を目指し北上した思い出が今でも色濃く残っており、はっきりと思い出すことができます。石神井と吉祥寺の間に自転車の車輪の跡が残っており、それを「大島ロード」と名付けても良いほどです。


 髪の毛を真っピンクにしたのもこの時期でした。また偶然再会した地元の友達3人と定期的に集まり、上石神井駅南口の「一圓」というラーメン屋さんで大盛りのチャーハンや餃子を食べては、僕の家でプレステばかりしていました。また、どういうひらめきがあったのか、部屋のエアコンの上に飲んだバドワイザーの空き缶をピラミッド状に積み重ねていくというマイ・ブームがあり、バドワイザーばかりせっせと飲んでいました。とにかく「学生」という身分を、大学生の専売特許である「モラトリアム」な時間を謳歌していた場所です。時間と可能性なんぞ自分の目の前に無限に広がっていると勘違いしていました。おっかなびっくり上京してから1年経ち、東京の生活にもこなれてきて何事においても無敵に思えた時期です。もちろん、ただ意気がっていただけなのでしょうが。この家にはビビッドなイエローのイメージがあります。西武新宿線の電車の色も影響しているのかもしれませんが、とにかく派手なイメージです。


 最後、引越すことになり、両親とともに荷物をまとめて国分寺に向かう前に、何もなくなってガランとした部屋を1人でしばらく眺めました。ひとつの何かが終わったなという気持ちがわいてきました。おそらく10秒、否2~3秒ほどの時間だったのでしょうが、今でもこの時間が鮮明に頭の中に残っています。今日で何かが終わって、そしてまた違う何かがはじまるんだろうなと。つまり、部屋に対しての名残惜しさではなく、そこにいた自分に向けた別れの挨拶だったのかもしれません。今振り返って思えることは、石神井に居た頃は本当に世間知らずで恐いものなど何ひとつ思い浮かばなかったガキだったけど、この引っ越し後には「世の中」というものの残酷さや不条理を身にしみて感じることになったということ。甘ったれた根性をコテンパンに打ちのめされ否定され、少しずつタフになっていくことになるわけです。世紀末2000年の9月か10月、非常によく晴れた午後の出来事でした。