春と地下鉄

 毎年と呼ばれる季節になると判で押したように思い出す、というか、僕が求めることがある。プロ野球の開幕や、飛び交う花粉や、意味のわからない強い風や、不自然に真新しいスーツや、義務的に設定される野外での飲み会などでは、僕の中では、春がきたぞという実感は湧ききらない。あとひとつ足りない、と僕は思う。そうだ、それは地下鉄だと。


 東京にいた頃、大勢の人間がそうであるように僕も電車に乗って出勤していた。そして、地面の中を走る地下鉄をよく利用した。電車の中ではほとんど居眠りして過ごす。朝起きて、電車に乗ってまた寝るという日課になる。やがて目的地にたどり着き、目を覚まし、地上に向かう。この二度目の目覚めのあと、到着駅で地上に降りたったときに感じる、あたたかさであったり、蒸し暑さ、肌寒さ、凍てつきというのもが、「日常」や「季節」を感じるバロメーターの役割を果たしていた。地面の下という反自然な空間から、地上という場――たとえそれが大都会のコンクリート・ジャングルであったとしても――に戻ってこれたときに、僕が存在している世界というものを改めて真剣に体感していたのかもしれない。そして、その中でも春という季節の訪れが特別に強い存在感をはなっていた。冬眠明けの熊の次くらいに、僕は地下鉄の駅から出たときのあの春の光を待ち遠しく感じていたんだと思う。


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 だから僕は今でも春という季節になると、東西線、茅場町駅の3番出口から見上げた青空というもの、青い空というよりかは桜の花のような淡く儚い色合いのスカイブルーの空を毎年毎年、必ず思い出す。それが何年前の春だったのか思い出せないが、とにかく、これが僕にとっての「春がきました」というひとつの確固たる基準なのだ。だから、あの空の季節が今年もやってきたか、ということで春を認識する。でも近年、地下鉄に乗ることのない生活をしているので、春がやってきたという感覚が正直掴めないでいる。自家用車での生活のほうが、自然と自分とを隔てる壁は大きい。一度暗闇に浸り、その後に感じる空気こそが、僕に季節を実感させてくれたのだ。


 ただ、いまさらそんなことを嘆いてもしょうがない。金沢には新幹線こそやってくれど、地下鉄などおそらく僕の生きているうちはできないだろう。だから、春と地下鉄が非常に密接な関係にあるという法則は、ひとつの思い出としてどこかの戸棚の奥にでもそっと置いておくほかなかろう。


 さて、関東は桜がピークだとか。今年の東京の春、地下鉄の出口から見上げた空はどんな色をしているのだろうか?

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