襷は繋ぐか、受け取るか

 もうひとつ、先日のリレーマラソンのときに気づいたことを書いておきます。


 僕はその日、自分の走ってない時間のほとんどはチームのタイムを記録する係でした。襷を繋ぐ地点にスタンバイし、仲間Aがやってきたらストップ・ウォッチを押して時間を書き留めます。そして仲間Aがスタートした時間から引き算をして仲間Aの1週のタイムも記しておくという役回りです。とはいえ、実際に作業をするのは仲間Aから仲間Bに襷が渡される前後10秒ほどの時間だけで、あとは妙ちくりんな格好で走っている他のランナーを眺めて過ごしていました。


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 やがて、60過ぎか、ややもすれば70歳代のおじいちゃんランナーがやってきました。彼は模範的な日焼けをしており、体型もすっと痩せ無駄な贅肉など一切ない、いかにも健全なベテラン・ランナーといった風貌です。ジョギングが趣味で、もうかれこれ40年も走ってますよカーッカカ、という声すら聞こえてきそうです。しかし彼は、赤い襷を片手に、その場で軽いステップでも踏みながらおろおろとしています。そしてその表情も見るからに困惑しているのが手に取るようにわかります。他の多くのランナーが、きゃっきゃ言いながら、また「頼んだぞ!」とか「ナイス・ラン!」などと激を飛ばしながら襷を繋いでいく中、彼は1人、その場で足踏みをしながら行ったり来たりきょろきょろしているのです。つまり、次のランナーが見当たらないのです。


 かなり長い時間、彼は仲間のランナーを探していました。そしてその時間と比例するように、彼の表情には狼藉と嫌悪と悲壮が浮かび上がってきます。あげく、多くの“普通の”ランナーが、それをあざ笑うかのように、彼の横を猛スピードで駆け抜けていきます。無情にも。


 やがて大会の係員が彼に気づき、一緒に次のランナーを探しはじめました。そのあたりで、僕のチーム・メイトがやってきたので、手元のストップ・ウォッチに集中します。そして記録をつけている間に、彼も係員も見失ってしまいました。無事に襷が繋げたのか、棄権したのかは知りません。


 そこで僕が感じたことです。


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 箱根駅伝などを見ていても、「懸命に走ったが襷が繋げなかった」という場面を、たまに目にします。制限時間というルールの中で起こる悲劇です。しかし襷を繋げないことなどより、ずっと残酷なことが有りうるのです。それは、襷を受け取ってもらえるはずの仲間がいないということです。「襷」という言葉からは、自動的に「繋ぐ」という動詞が思い浮かぶと思いますが、実は襷は繋ぐものではなく、しかと受け取るものなのではないのかなと思いました。しかるべき場所にて確実に受け取ることのほうが、はるかに重要で意味のあることなのではないかと。受け取る人がいるからこそ、それを繋ごうとするわけですから。


 また、別段駅伝やリレーに限ったことではないような気もします。待っていた誰かが来なかったという事実なんかよりも、待っているはずの人が居ないという現実の方がはるかに残酷でクリティカルだということが。どれだけ文明が発達しても時間に遅れる人がなくならないのは、たとえ遅刻したとしてもたいていの場合、人は待っくれるからでしょう。待ち合わせに1秒でも遅れたら誰も待ってくれないという世の中になれば、時間を守らない人は劇的に減るはずです。誰かを待つということ、そして誰かからのメッセージを受け取るという受動的な行為に対して、もっと意味を感じても良いのかもしれないなと感じました。