九龍との別れ

 香港に来て4年目になるが、日本に帰ることになった。正確には3年6ヵ月、永住権所得にはちょうど半分足りない。日数では(今月末付けで)1279日香港で暮らす計算になる。僕の一生ががあとどれだけ残っているか知らないが、その中のこの1279日というのは、本当に本当に大きく、重く、濃いものである。


 とにかく香港は大都会だった。でも東京とはまったく色合いの違う都会だ。思うままに言うと、雑で汚い。良く言い換えれば、野生的でスリリング。上を見ると40階クラスの超高層ビルがいたるところに建ち並び、ストリートの真上には香港名物ともいえる看板、ネオンが視界いっぱいに広がっている。でも足元を見ると路面はデコボコしてるし、よくわからないゴミやガラクタが散乱してるしゴキブリだって闊歩しており、ふいに異臭に襲われることもある。この落差がとにかく魅力的。「足元が疎かになっている」というのを街として描くとすると、香港ができあがる。また東南アジア人や欧米人など人種も様々で、飛び交う言葉も広東語や普通語、英語にとどまらない。昔、社会科の授業でアメリカのニューヨークは人種のるつぼだとか習ったが、香港だって充分にるつぼだと思う(ニューヨークに行ったことないけど)。この雑多感がたまらくチャーミングだった。いつの間にか、日本の方にアウェー感を感じるくらい香港に馴染んでいた。それだけ香港の生活を満喫できていた気がしていただけに、正直残念だ。


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 そしてこの香港ライフの大きな反省点として、香港に来てから香港のことをまったく記録していないということがある。このブログはもちろん、facebookにもこれといった投稿を残していないし、iPhoneの中の写真画像すらほとんど存在しない。テレビで紹介されるような定番スポットには当然足を運んだし、安くて美味しいお店も数多く行ったが、ほとんどが店名はもちろん、メニュー名も覚えていない。とはいえ、最後にまとめておかないといけない。国としての不思議な立ち位置、複雑な文化、馴染みがありながらも独特な食文化、そしてそこで暮らしている人々、等々。20代のほとんどを過ごした東京の11年半、それを軽く凌駕するインパクがあった香港の3年半。書き残しておかなくては。

「島耕作」シリーズを読んで(途中)

 もちろん「島耕作」という漫画が存在することは昔から知っていたが、別段興味もなかった。そもそも漫画というものが、非現実性を描くために存在していると考えている節があったので、どうしてわざわざ平凡の象徴のような「サラリーマン」を舞台にした漫画なんかを読まなければいけないのだ、というのがこれまでの僕の考え。いつだったかに「島耕作が社長になった」というヤフー・ニュースが流れ話題になって、おもしろいなとは思ったが、それ以上の興味は沸かなかったことを覚えている。空を飛んだり、過去や未来に行ったり、目から光線が出たり、不死身の人間が居たり、巨人が出てきたり、奇跡の逆転勝ちやジャイアント・キリングが続いたり、美女と野獣のありそうもない恋愛ストーリーこそが漫画であると考えていたのだ。


 とはいえ、先日「アメトーーク」で取り上げられたことをきっかけに、なんだかんだでサラリーマンを長年続け、そしてこれからも続けていく身になってみると、「どれ読んでみようかな」という気になった。「BookLive!」という電子書籍ストアでは、島耕作各シリーズの1巻は無料で、まとめ買い20%オフだったので、自分と同じ立場である「課長」シリーズと、「学生」シリーズを購入(期間限定だったので、20%オフはもうやってないかも。ちなみに中国語版は、全シリーズ全巻無料らしい)。計23冊で9,072円のお買い物。


 僕はこの漫画を読みながら、先にも書いたように「平凡を舞台とした漫画」に興味を惹かれ、楽しんで読んでいる自分が居ることに対し老けたなと感じた。漫画への感想というより、自分に対する客観的な哀愁がまず思い浮かんだわけだ。


 ところで、島耕作という漫画は「出世」と「女」の物語だとよく形容されるが、それ以外にも「死」というものが容赦なく描かれていることも醍醐味の一つのように思う。どんなに平凡でも、否、平凡な物語であるからこそ、「死」の存在感というものはヘヴィーにのしかかってくる。非現実的な物語では、死すらリアリティがない。


 もちろん、サラリーマンの漫画でも、仕事やプライベートに対して上手くいき過ぎているという非現実性はふんだんにある。ところが、要所々々で顔をのぞかせる「死」(または、転勤などによる別れ)というものに心が痛くなるも、物語は淡々と続いていくわけだ。そこはかとなくリアル。働くことよりも、誰かの死について考えさせられる物語なのかもしれない。

変身

 2017年も最終日になって、今年1年を振り返ってみる。


 一番感じたことは、今年になってから、怒っていることが非常に多かった気がすること。


 元々僕はヒトにもモノにもゲンショウにも、なるべく腹を立てないように生きてきたつもりだった。喜怒哀楽の感情もできるだけ表に出さないように努めていて、その結果いつの間にか、無表情で無愛想な人間になっていた。心がけが変われば行動が変わって、やがて習慣たら人格たらもどうのこうのとかいうやつだ。


 ところが2017年になってから、感情の起伏が激しいと感じることが多くなってきたし、それを押さえきれないケースも少なからず出てきた。これまでは良くも悪くも楽観的であったし、「どっちでもいい」といったスタンスの生き方だったのだが、いつの頃からか、瞬間的に感情を刺激されることが多くなってきた。はっきりと「ノー」と感じることが多くなったのだ。AB型のうちの「B型」の血を非常に強く感じ、今、B型発動中だなと実感していることも多々あった(AB型というのが、A型とB型の混在という意味合いがどうかも知らないが)。メンタル的に弱くなってしまったのかな、だから短気になってしまったのかなと感じることが多々あった。


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 そんな2017年の僕の今年の漢字は、「虫」。端的に言うと「弱虫」というイメージでの「虫」。ちっぽけな存在である意味合いでの「虫」。とても視野が狭く、単細胞ま「虫ケラ」のようになってしまっていたという感覚。そんな一文字が今年の自分にお似合いかなと感じてしまう。


 ともかく、朝起きたら巨大な虫になっていなかっただけでも幸せだったのかもしれない。

作文:自己紹介(リライト)

 日本語を勉強中の香港人「作文」を書いてみてくれと言われた。テーマは自己紹介で文字数は自由だとか。で、書いてみた。その後、書いたものを見せると「広東語で書いてください」とか言われた。聞いてねーよ今更おせーよと告げて、広東語の作文は無視することにしたのだが、せっかく書いたので、日本語版は一部加筆訂正し、ここにでも載せておく。

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【自己紹介】

1977年9月13日生まれ。乙女座。AB型。身長167.6センチメートル。体重64.8キログラム。BMI23.0。視力1.5(左右※レーシック手術済)。血圧59-96。スリー・サイズ非公開。メイド・イン・ジャパン。

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 もし僕がヤマダ電機の売り場に売られていたら、他店のどこよりも安い安心価格と共に、このようなスペック説明が書かれることだろう。もちろん、これだけのディスクリプションと本体の展示だけじゃ、誰も本製品の前で足を止めない。目の肥えた日本人はおろか、懐の肥えた中国人だって手に取らないし、目にも止めないことだろう。そこで、本製品に興味を持ってもらうために、別紙のパンフレットに目を通してもらうことをおすすめする。そのパンフレットには、さらにちょっと踏み込んだバックボーンまでも書いてあるのだ。

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 本製品は、日本でも一二を争う地味なゾーンである北陸地方でひっそりと産声を上げる。身体が弱かったため、両親、祖父母の元、徹底的に甘やかされ、育てられる。当然、人見知りで内弁慶な人間となる。加えて喘息持ちで、入退院を繰り返しつつ10歳まで毎日薬を飲むような子どもだったが、それでもなんとか人並みには成長した。中学では殴る蹴るは当たり前のスパルタの部活で鍛え上げられる。寡黙に耐え、禁欲的にゴールに向かって走り続け、それ相応の結果を残した。しかし一転、高校ではその反動でろくでもない3年間を過ごす。真面目じゃないことに、一定の価値とカッコ良さがあるものだと勘違いしたのだ(この年頃では誰でも同じかもしれないが)。そして当時は京都への進学を強く希望していたが、結果的に東京に出ることになる。東京を選んだ理由として、当時の先生から「とにかく人の多いところに行った方がいい。東京へは日本中のいろんな地域から個性豊かな人間が上京してくる。こんな田舎では想像できない、様々な人間から受ける刺激は京都の比じゃない」というアドバイスが一番の決め手となった。僕はこれまで、人の少ない方に、目立たない方にというどちらかというと逃げの道を選ぶことが多かったのだが、その選択基準を変えての進路決定だった。人の多いところに、自ら出ていく。


 果たして、東京で、とにかくありとあらゆる種類の人間と出逢うことになった。そして、20代という人生でももっとも吸収力のある10年間のほとんどを東京で過ごしたためか、大きく人格を変えられることとなる。もちろん良い意味でだ。人の集まるとこには、何かしらのエンターテイメントが潜んでいる。人が集まってくれば、何かしらのアイデアとパワーが生まれる。そして人を集めるには、自分の魅力を精一杯主張することが必要不可欠である。これまでにまったく興味の無かった、他人というものに対して少なからずの関心を抱きはじめたのがこの頃である。


 その後、一旦北陸の片隅に戻り、ひっそりと静かな毎日を送り死んでいくのかと思いきや、香港という縁もゆかりもない海外の大都市に出てくることになる。世界でも有数の人口密度を誇る、香港。世界中のいろんなところから個性豊かな人間が集まってくる、香港。そして、2017年、今に至る。ナウ・オン・セール。

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 本製品はまだ未完成です。あなたの手で、理想の形に仕上げていってください。

遺書を書いた。(リライト)

 とりあえず、5年前の状況から説明していこう。


 村上春樹の「プールサイド」という短編小説のなかで、「35歳は人生の折りかえし点」だというセリフが登場し、35歳になる少し前から、人生における「35歳とは?」ということを強く強く意識するようになった。で、その35歳をむかえるにあたって、「遺書」でも書き残しておこうと思ったのだ。仮に、明日死ぬことがわかっていたとしたら、僕はどんな遺書を書くのだろうかというシミュレーションみたいなもの。


 縁起でもないとあなたは顔をしかめるかもしれないが、僕らは間違いなくいつまでも生き続けられるわけではない。大なり小なり死を意識しながら生きることが、人生の折りかえし点を過ぎた人間の、余生を過ごすコツのようなものだと思っている。


 というわけで、35歳のときに最初の「遺書」を書いたのだが、まあとても書きにくかった。僕は小学校のとき、作文が大嫌いだったのだが、その当時の厭だった気持ちを思い出した。そもそも、誰かの「遺書」を真剣に読んだことがないので、正しい「遺書」であったり、「遺書」とはこうあるべきという形を知らないからだと思う。誰に対してどれくらいフォーカスして書けばいいのか、感情はどのくらい盛り込めばいいのか、客観性はどの程度必要なのか、どこまで固有名詞や具体性を記した方がいいのか、比喩や暗喩は控えた方がいいのか、哲学的なフレーズは求められているのか、などなど。


 とにもかくにも、遺書かどうかはさておき、ひとまとまりの文章にして終わらせた。本当に「終わらせた」という表現がぴったりくる区切り方だった。そして次は40歳になったらまた書こう、5年後には自分はどんな人生を振り返り方をするのだろかと。


 で、5年が経って、今に至る。


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 しかし5年前と同じように、相変わらずどう書いていいのかまったくわからなかった。まあそもそも死ぬ気もない人間が遺書なんて重いものに触れ込もうとしてはいけないのかもしれない。遺書というよりも単なるメッセージ文章になってしまうのだ。まあそれでもいいのかもしれないが。


 ということで、都合2つの遺書(という名前のひとまとまりの文章)ができた。もちろん誰にも見せるつもりはないし、仮に僕が死んでも誰も見つけないと思う。ともかく、あと何回、この僕なりの遺書を書くことができるのだろうか。次は45歳。齢を取るにつれて、徐々に遺書を書くのも上手になっていくのかもしれない。それもそれでさみしい気もするが。